1992年春、私はある大学の経済学部に専任講師として就職し、生まれて初めて大学の教壇に立った。大教室でほぼ一杯の学生の前に緊張しながら、経済原論の講義をした。
当時の私は、今では考えられないほど、事前によく講義の準備をしていた。同じ年に就職した同僚で、他大学から転職してきた経営史研究者の鈴木恒夫氏から「一年目の先生は、一番いい先生」という言葉があるんだよ、と居酒屋でおしえられた。
新人教師には、これから「一所懸命、学生におしえるぞ」という教育に対する新鮮な情熱がある。明日が授業というときには、飲み会も早々に切り上げたりした、場合によっては誘いを断って、授業準備なんてこともあった。今ではとても信じられない。それほど、たしかに一年目の私は、いい先生だった。
ただ、いい先生ではあったかもしれないが、おもしろい先生ではなかった。頑張って準備して懸命に講義をしている割に、学生の反応はよくなかった。今日の授業はうまくできたという手ごたえのようなものが、まったく感じられなかった。
夏休みも間近に迫ったある日の授業は、部屋の暑苦しさとは裏腹に、いつにも増して学生の反応は冷めていた。ハッキリ言って、学生は授業というか、私から完全に「ひいている」ようにみえた。「こんなに一所懸命におしえているのに」と、そんな学生の反応を懸命に講義中の私は、さすがに不快に感じた。
講義が終わり、汗だくチョークまみれになって、その手を洗おうと、いつものようにトイレに入った。鏡に映った自分の顔を見た。そこには、口のまわりにすでに半分固まりかけた鼻血の流れる跡があった。学生がひいていたのは、鼻から血が出ていることにすら気付かないで、とにかく話し続ける暑苦しい私だったのだ。
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夏学期の授業がすべて終わった頃には、講義への自信をすっかり失っている自分がいた。教師という仕事につくづく向いていないと、自分の人生の選択の誤りを嘆いた。夏休みが終わり、秋からまた講義が始まることに、私は鬱々としていた。
当時、私たち教師が集まる研究棟はアパートのような小じんまりとした建物で、そのなかの一室である公共スペースにみんながよく集まって、コーヒーを飲んだり、お昼を一緒に食べたりしていた。私が就職する直前までは、冷蔵庫にはよく冷えたビールが入っていたりして、夕方になると何人かで飲んだりしていたそうだ。
ある日の昼にふらっと立ち寄ると、日本経済史を教えていらした大石慎三郎先生が、出前のタンメンをひとりすすっていた。大石先生は江戸時代研究の第一人者で、歴史番組や大河ドラマの歴史考証などで、たびたびその姿や名前をテレビでおみかけしていた。
それほど日ごろお付き合いもなかった大石先生に、私はそのときなぜか、突然質問した。「授業にまったく自信がないんです。自分なりに努力してやってるつもりなんですけど。学生には全然伝わりません。先生は、どうされているんですか。」
大石先生は箸を少し休めて、ゆっくりとこうおっしゃった。「ボクは講義でも講演でも、今日はアレと、コレと、コレを、3つくらいしゃべろうかなあと思っていくんです。それで始めてみて、今日は反応が悪そうだから2つにしとこうとか、今日はみんな聞きたがっているから、4つめも話そうか、そんな感じです・・・ね。」
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私は、毎回ほんとによく準備をし、せっせと講義用のノートをつくって、講義してきた。何のために?学生に正しい経済学の知識をおしえたいためだ。でも、本当はそうじゃなかった。自分が間違っているといわれたりしないようにするためだったのだ。
その証拠に、私は授業中、ほとんどノートしか見ていなかった。学生がその内容にどんな表情をうかべているか、私は本当には関心がなかったように思う。前を向くことすら少なかったから、どんなとき、学生はあくびをし、寝てしまうかなんて、考えもしなかった。ただ学生が怠惰なだけと思っていた。
まじめで一所懸命な私は、学生の顔をみていなかったのだ。
そして素直な私は、大石先生のおしえにならって、それから講義でも講演でも、今日話す3つは何にしようかなと、それなりに考えている。2年目の講義からは、授業をするときに、講義用のノートを持っていくことをほとんどやめてしまった。手ぶらで教室に来る私を、学生は最初、いぶかしげに見ていたようだが、「自分が憶えられないことを学生に憶えてとはいえないでしょう」なんて、ちょっとキザなことを言ったりもした。
私は今でも自分が授業や講演が上手いなんて、まったく思わない。二日酔いのときなんか、ほんとに呂律も回らずヘベレケだ。学生やお客さんには、ときに不満もあるだろう。それでも、今日はよろこんでもらえたのかな、と感じることもないわけではない。それが自惚れではなかったとすれば、あのとき、大石先生からおしえていただいた、「3つ」が、大きなヒントだったのはまちがいない。
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大学でも授業評価アンケートを実施するのが当たり前の時代になり、これまで私の講義にもいろいろな評価をもらってきた。ときには手厳しい評価をいただくこともあるのだけれど、自分で言うのもなんだが、案外、好意的な感想をいただくこともあったりした。
お褒めの言葉をいただくとき、感想として一番多いのは「わかりやすくてよかった」といった文言だ。それはそれで嬉しいのだが、正直いえば、ちょっとさみしい気持ちもあるのも事実だ。私なら講義をした学生の感想として一番嬉しいのは「わからなくなった」という言葉だ。もっと言えば「わからなくなった。だから自分で考えてみたい」だ。
よく言われることだが、大学の授業にはほとんど唯一の正解なんていうものはない。私が学んできた経済学は、200年少しの短い歴史しかない新しい学問である。経済なんて、まだまだわからないことだらけだ。だからこそ、教えるほうとしても、実のところ、自分でも根本的にはわかっていないことを教えているということは多い。それなのに「わかった」「わかりやすかった」といわれても、ちょっと困ってしまうのだ。わかりやすいものは、往々にしてウソだったりもする。
今は、大学に限らず、こぞって「わかりやすさ」が求められる時代だ。大学がサービス業として、わかりやすい情報を提供しようと努力するのが悪いとは思わない。けれど大学教育で本当に大切なのは、わからないということへのタフネスを身につけることに精力を注ぐことだと私は思う。そしてそれが最良のキャリア教育であると、私は信じている。
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キャリアとは、轍(わだち)のことだ。轍がつながり、そこに道が出来る。しかし、人生という長い道のりをどう歩いていけばよいのか、そこに正解などあるかどうかなんて、誰にもわからない。ただ、どんな道にせよ、共通するのは、途中で必ず迷うということだ。どちらに進んでいけばよいか、わからないときがきっと多々あるだろう。
そんな迷ったときにどうするか。いろいろな人たちの経験を踏まえながら、わからないなりに、現実的でかつ将来性のある判断ができるようになること。それこそがキャリアをデザインするということだと、私は思う。
私自身の働き始めてからのキャリアデザインの第一歩は、大石先生のご経験に基づく一言によって刻まれた。それは今も幸せな思い出である。
文部科学教育通信154号
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