音響

ラジオで
プロ野球中継を
聴いていると
ボールがグラブに収まる音や
打球音が
格段によく耳に響く。

必要なのは
しゃべらないで伝える
実況力と解説力なのか。

おそらくそれは
放送事故にならない程度の
間合いの芸
だろう。

今だけの楽しみ。

『地域の危機・釜石の対応(6)』

未来に希望をつなぎ、多層的に訪れる危機群に対応するには、
地域の関係者が自ら小ネタを語っていくことが求められる。
それはどうすれば可能となるのか。
特に話すことなどないと感じている人々は、
どうすればよいのか。

どんなささいなことからも小ネタは生まれる。
むしろささいなことこそ面白い。
取るに足らないと決めつけず、
知っていること、経験してきたことを、
即興で話したり、訊きあったりする。
ウケもオチもなくていい。
クスッとすることがあったなら、
とりとめなく笑い合う。
それをきっかけに、話題は思いもよらず、つながっていく 。

小ネタがあるところには人々のたしかな営みがある。
自然と耳を傾けたくなる小ネタには、
そこで暮らすことの悦びや哀しみがある。
それは活性化とは異なる地域に生きることの
リアルな価値だ。

人口の多いほうが話題は生じやすいかもしれないが、
自動的に生まれるわけでもない。
人が減っても、一人ひとりが日常を大切にし、
たまに誰かに語りたくなる何かがあれば、
小ネタは尽きない。

小ネタに事欠かない場所には、
たくましさ、潔さ、愛おしさがある。
そんな地域がこれからも生き残るだろう。

(続く)

東大社研・中村尚史・玄田有史編、東京大学出版会
『地域の危機・釜石の対応 多層化する構造』より
http://www.utp.or.jp/book/b508909.html
2020年6月30日発売

相談

ずいぶん
前だったと思う
のだけれど
大学の学生相談室で
働いていらっしゃる方の会に
呼んでいただき、
お話をさせていただいたことがある。

終わった後の
立ち話か何かで
「最近『五月病』はどうなっているんですか」
とうかがうと
「五月病は、なくなりました」
と言われた。
「え?」と
驚くと
「年がら年中病になりました」
というのが、そのときのオチだった。

入学や入社などで
新しい環境に身を置かれた人のなかには
なかなか馴染めない場合もあるだろう。
さらに今回、直接会って話を聞いてくれたり、
励ましてもらったり、励ましあったりということが
できない状態がまだ続いている。

オンラインでの授業、研修、コミュニケーションなどでも
どこか疎外感があったり、うまく溶け込めないこともあるだろう。
次第にオンラインにも参加できなくなって、そのまま
連絡が取れなくなっている場合もあるのかもしれない。

孤立しているという事実が、
実際に対面の機会ができたときに
その場にいないことで
はじめて判明したというのは、
なんとか避けたい事態だろう。

会社の人事や学校の学生担当の方などは
いろいろと個別にアプローチを
努力されていることと思うが、
直接会えないことで、
もどかしい思いをされているのではないか。

最近、全国の地域若者サポートステーションなどでも
オンラインでの相談にも力を入れているという。
遠距離で交通費がかかり、サポステにまで
行けなかった人には相談のチャンスが広がったことは
朗報だと思う。

一方、相談では、対面には対面の良さがやはりある。
以前に比べれば、相談の場所や機会、ツールも広がっている。
しばらくは限られた時間になるかもしれないが、
対面で直接悩みや不安を聞いてもらえる機会は増えてくる。

疎外感や孤独感に苛まれている方でも、どこかで
相性のいい話し相手や相談相手は、かならずいるので
ドアをノックしてほしいと思う。

『地域の危機・釜石の対応(5)』

小ネタの対極にあるのが、大ネタだ。
そこには、成果を実現するための
豊富な材料があり、大がかりな仕掛けが伴う。
大ネタの多くは、有名な歴史、文化、産業、自然などを頼りに、
経済の活性化や関係人口の拡大、あわよくば
定住人口の増加が目指される。

近年の地方創生に限らず、地域振興では
大がかりな開発型政策がずっと主流だった。
全く新しい価値を創造すべく、
改革という名の大ネタ主義的な開発に
地方は突き進んだ。同時に、
すぐに大きな成果に直結しない小ネタは、
その価値をあまり意識されることもなく、
多くが放置されたままでいた。

大ネタには、多くの人を巻き込むため、
きまって固有の「ストーリー(物語)」や
「ビッグピクチャー(全体像)」が必要とされる。
目に見える結果も常に期待されている。

さらに大ネタは、きまってその特徴として、
実行に人手と時間と経費が相当程度かかる。
実現には、予算を確保すべく自治体が
中心的な役割を担うことになる。
だが、ずっと奔走し続けることは難しく、
関係者もいつかは疲弊し、
途中での変更を迫られる事態も生じたりする。

仮に最後までやり遂げられたとしても、
大ネタには、明確なオチが不可欠である。
大規模な事業計画には期限があり、終わりがある。
幕が下りてしまうと、熱気はあっという間に
記憶の彼方に遠のいていく。
活性化を取り戻そうとふたたび夢見れば、
新しい大ネタを求めざるを得ない。

結局、一時の盛り上がりのため、
大掛かりな苦労を延々と続けることになる。
しかし、人員も予算も余裕も切り詰められていくなか、
大規模な開発主義は限界を迎えている。
にもかかわらず、活性化という呪縛のもと、
大ネタから脱却し、新たな方向へかじ取りが
できないままなのが、多くの地域の現状だろう。

それに対し、小ネタの特徴は、なんといっても
人手も時間もお金もそれほどかからないことだ。
「誰でも、どこでも、いつでも」
つくろうと思えばつくれる。それが小ネタだ。

その主体は、行政ではなく、
あくまで個々の住民である。
小ネタは「個ネタ」でもある。
住民は、生活のなかに小ネタにつながる
きっかけを元々持っている。
そのうち、住民同士の間で広がり、
ついには全体を巻き込む大ネタへと
「化ける」こともある。
それも行政がすべてお膳立てしたものではなく、
住民主体の小ネタが結実した結果としての大ネタだ。
成功したB級グルメなど、小ネタ発祥の典型だろう。

必要なのは、無理なストーリーを作り、
やみくもに仕掛けることでない。
小ネタの自然な集積により、地域の本当のストーリーは
浮かび上がる。魅力あるストーリーは、
小ネタの積み重ねから生まれる。
今こそ、大ネタさえあれば活性化できるという呪縛から、
脱するときなのだ。

(続く)

東大社研・中村尚史・玄田有史編、東京大学出版会
『地域の危機・釜石の対応 多層化する構造』より
http://www.utp.or.jp/book/b508909.html
2020年月6月30日発売