ボクは釜石に来ると、いつも飲みすぎてしまう。楽しいからだ。
食べものもおいしいし、なんといっても人がいい。2007年1月に希望学調査団として、はじめて釜石におじゃましたときの印象を、宇野君はなんだかいつも笑っていたと書いた。ボクは今でも、ここに来ると笑ってばかりいる。岩手日報の藤江さんは釜石赴任から当地を離れるまで「ここで嫌な思いをしたことが一度もなかった」と言った。ボクもそうだ。これからも、きっとそうだろう。
外から訪れた人の多くにとって、じつに居心地の良いこの街も、そこで生活する人たちにとっては、けっして楽しいことばかりではないかもしれない。若者が減っていく。学校は少なくなる。仕事もなかなか増えない。中学生や高校生は、遊ぶところがなくてつまらないと言う。病気への対応や法律相談など、将来への備えも万全とは、けっしていえない。なんといっても遠い。遠い遠野より遠いのだから、よほど遠いと、東京に住む人は思う。
でも、ボクは釜石が好きだ。そしてこの釜石の未来にも希望はあると思っている。どれだけ人口が減ったとしても、地域に小学校を一つは残したいと、山華の八幡社長は言った。「自分は夢を持ったまま死んでいくのが夢だ」ともおっしゃった。こういう気概を持ち続ける人がいる限り、釜石から希望は絶対になくならない。
釜石は、近年の合理化による不況に限らず、艦砲射撃や津波など歴史的にも多くの失望を経験してきた街だ。かつて地方の希望の星だった明るい記憶は、かえって現状や将来の見通しを、より色濃く暗いものに感じさせたりする。
しかし、失望はけっして悪いことばかりではない。希望学を研究しながらわかってきたのは、希望が大切であるとすれば、希望がなければ失望もできないということだ。そして失望を経験してみて、はじめてわかることもある。失望を乗り越えて得た希望こそ、本当の希望である。多くの苦しい出来事を経験してきた人に特有の明快さや潔さのようなものを、私たちはこの街で出会い、話をうかがった方から感じてきた。だから、ボクたちはこの街が好きなのだと思う。
今日の中間報告会もそうだし、これから続々と刊行される釜石の歴史、現状、そして将来についての研究結果には釜石関係者の方々にとって愉快でない内容もあるかもしれない。よそ者に何がわかるかというお叱りをいただくかもしれない。希望学の釜石調査はすべて東京大学社会科学研究所の責任で行っているものであり、事実の誤認や不適切な表現などがあったとすれば、それはすべて私たち希望学プロジェクトメンバーによるものである。私たちは学ばせていただいた結果を率直にご報告申し上げる。釜石のみなさんからも忌憚のないご意見やご感想を期待している。
9月の大調査団で訪問した際、懇親会の挨拶で希望学のメンバーである橘川さんは言った。「釜石の希望は点在していて、まだつながっていない」。希望は、人と人との関係のなかにしか生まれない。大事なことは、どんなに苦しくてもパスをつなぎ続けることだと思う。そのパスを受けとめ、そして新たなパスをつなげていく人たちが、釜石の内にも外にも、必ずいるはずだ。
誰かや何かに期待するだけでなく、自分が期待される存在であると一人ひとりが自覚し、自分に出来ることを地道にやり続けること。そこに希望の輪は広がっていくのではないか。その輪のなかで、釜石にとっての「誇り」とは何であるかを決め、皆が共有する。そしてその誇りだけは、どんなことがあって失わないという志のようなものを持ち続けることだ。
釜石では「出会い」の大切さを語る多くの方にお目にかかった。釜石と希望学は、まさに一つの出会いだった。この出会いは偶然だが、今思うとそれは必然的な偶然だったように感じている。
これからもこの出会いを大切に育ててゆきたいと思っている。
東京大学社会科学研究所
希望学プロジェクトを代表して
玄田 有史