今日の銭湯は
入った瞬間
スミを入れた人と
入れない人の
人数が
ほぼ互角の勢いで
あった。
よく会う
彼のスミも
時間をかけつつ
次第に色が付いて
きている。
お互いが
お互いの
それを
どう思っているのだろう。
今は互角だが
このままでいくと
少数派(マイナー)行きは
確実であろう。
一人はずっと
サウナで
アボカドの
話を
別の兄さんにしていた。
運んでいるのだろう。
今日の銭湯は
入った瞬間
スミを入れた人と
入れない人の
人数が
ほぼ互角の勢いで
あった。
よく会う
彼のスミも
時間をかけつつ
次第に色が付いて
きている。
お互いが
お互いの
それを
どう思っているのだろう。
今は互角だが
このままでいくと
少数派(マイナー)行きは
確実であろう。
一人はずっと
サウナで
アボカドの
話を
別の兄さんにしていた。
運んでいるのだろう。
どうにも
苦手な言葉が
ある。
ウィンウィン
という言葉。
もちろん
状況にもよる
のだろうが
そんな都合の良い
ことがそうそうあるだろうか
と思ってしまう。
もしそんなお互いに
とって改善する余地が
あったのならば
(経済学では「パレート改善」という)
とっくの昔にそのような
選択はお互いの協力で
実現されているはずではないか。
それができていないとすれば
その実現をむずかしくしている
なにか途轍もない制約が
あるのか、
そうでなければ本当は
ウィンウィンではなく
実際は
ウィンルーズ
の関係だからではないか。
それに当事者同士が
ウィンウィンだ
と思っていたとしても
そのときには
別のどこかで
必ず泣いている人たちが
いる。
もし本当に誰にとっても
ウィンウィンだといえる
状況が残されていたのだ
とすれば
それは過去から現在にかけて
大切な資源やチャンスの浪費が
あったことになる。
そのときには
ウィンウィンだ
などと安易に未来に希望を抱くよりは
これまでの
ルーズルーズ
だった現実を深く反省する
ことから始めるべきでないか
と思ってしまうのだが
どうなんだろうか。
まあ一番苦手なのは
ウィンウィンというご自分の言葉に
うっとりしている感じの
ご表情なのだけれど。