受容

〈待つ〉は、
人類の意識が成熟して
付加的に獲得した能力なのではない。
〈待つ〉ははじめから、
意識を可能にするもっとも基礎的な位相にあった。
〈待つ〉ことから未来は生まれ、
意識は始動したとすら言えるかもしれない。

たとえば、農耕文化の初期を想像してみる。
ひとびとは季節の反復をくりかえし経験しているうちに、
雨乞いをし、日照りを怖れ、収穫を待つようになった。

〈待つ〉はたしかに期待や予想と連動している。
ただ、期待や予想ほどに、現在につなぎとめられてはいない。
むしろ時のなかをたゆたい、なりゆきに身をまかせ、
ときに偶然に救われ、ときに偶然に裏切られ、
そのすべてを「さだめ」として甘受するという、
受動というよりは受容をこととしてきた。

〈待つ〉はそういう待機、
そういう受容としてあった。

――鷲田清一『〈待つ〉ということ』より

考察

感染症拡大が
仕事や生活に
もたらし始めた影響を
4月上旬時点で
考察したものです。
http://www.chuko.co.jp/chuokoron/newest_issue/index.html

雇い止めも懸念されるが
労働者自身が働きに出るのを
躊躇する「働き止め」が
今回の特徴でもあることや
2016年から取り組んできた
危機対応学から得られる示唆
たとえば
「ブリコラージュ」(やりくり・やりすごす)、
大きな決定は一週間以内でする、
緊急時に与えられた権限には事後評価が大切になる、
などを書いています。

その他、最後に述べた
「異常と変化への対応」
は今回に限らず
時代を超えたキーワード
だと思います。

稲妻

昨晩は
凄い雷と稲妻だったが
今朝起きてみると
いきなり
夏の空に
変わっていた。

雷音のなかで
テレビを観ていたら
元陸上ハードルの選手だった
為末大さんが出ていて
次のようなことを言っていた。

「勝っている選手が
早くこのまま試合が
終わってほしいと思うと
大概負ける。」

勝っていない選手が
こんな試合早く終わればいいのに
と思ったとき、待っているのは
なんだろう。虚しさだろうか。

反対に
こんな人生や生活でも
生きていれば
そのうちなにか
面白いことでも
あるかもしれないと
なんとなく思えれば
思いがけず
本当になにかある
かもしれない。

希望とは
たぶん
そんなもの
かもしれない。

 

希望

今となっては
遠い過去のようで
あるけれど、
3月27日に
感染症拡大が
雇用、特に若年雇用に
与える影響について
ヒアリングの依頼があって
官邸に話しに行ったときの記録。
https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/keizaieikyou/07/gijiyoushi.pdf

話の流れのなかで
突然思い立ち、
雇用の前に
希望の話をしている(13頁)。

それにしても、
くれぐれも総理が
「希望を皆さんに与えます」
といった表現はしない方が良い
といったことを
ご本人に向かってお話しするときが
来るとは思いもしなかった。

その後で
大事なことは、
国民一人ひとりが
希望をつくる力があり、
政治がそれを全力で支えることであり、
一人ひとりが希望を育んでいくのを応援すること、
というのは、
今もまったく変わらない。

調子

今のところ
特に予定もないのだが
今後オンラインでの
講演を頼まれたとき
どんな感じになるのだろうと
たまに想像する。

台本があってしゃべっている
わけでなく、
なんとなく会場の雰囲気で
ただ調子に乗って
しゃべっているだけなので、
どうすれば調子に乗れるかが
オンラインの場合、
正直よくわからない。

唯一なんとなく
共通するのではないかと想像するのは、
20年くらい前に
ラジオ講座の担当を
始めたときのことだ。

緊張したり、
うまくいかないことも
多かったのだけれど、
当時の担当ディレクターさんから
「誰か一人をイメージしながら話す」
ことの大切さなどを言われたのを
思い出す。

いずれにせよ、
講演そのものを
しばらくしていないので
そもそも最初から
うまくいくわけがないものだと
割り切るのが
なにより大事なのかもしれない。