危険

今日、
外国に暮らす
日本人の年下の友人からの
久しぶりのメールが届く。

最後にこう書いてあった。
「ゲンダさんも高リスクといえば
高リスクの部類に入ってしまうかと思います。
お体には十分お気をつけお過ごしください。」

そうです。はい、わかりました。
言外に「それほど若くもないんだから」
といういたわりを感じますね。

ありがたいことです。



誕生

「誕生日は?」
と訊かれると、
「マラドーナと同じ日」
と答えたりしたことがあった。

それは
誇らしい気持ちと
変人(?)と同じ日に
生まれた偶然が
こそばゆいような気持ちとで
なんだか面白かった。

ちなみに
生まれた日が
同じどころか
生まれた年まで
同じなのが
ミスター女子プロレスこと
神取忍氏。

さらに神取の宿敵だった
ビューティーペアの
故ジャッキー佐藤も
みな同じ誕生日。

だからなんだ
という話。

包括

先日、人事担当者の方々から、感染拡大後の対応について、いろいろお話しを聞いた。 そのなかで、こういう状況だからこそ、会社や職場の「一体感」をいかに生み出すかに努力されているといったことが、印象に残った。

仕事や関係の個別化は、今に限られない長期的な流れだが、それでもまさに今こそ、 リモートワークなどの個別を補う包括の取り組みが必要されているのだと思う。そうでなければリモートワークなどによる自由の恩恵は、自分のことは自分ですべて対応できる人たちだけのものになってしまうだろう。

そんなことを考えながら、エッセイを書いた。
https://www.works-i.com/project/coronashock/column/detail005.html

労働者を代表する手段や組織のあるほうが、個別の問題や課題を汲み取りやすく、結果的にリモートワークも進めやすくなるといった内容。 「離脱」だけでなく「発言」が、組織の衰退を食い止めるには重要ということの一例だと考えている。

運命

何年かぶりにV.E.フランクル『夜と霧 新版』(池田香代子訳、みすず書房、2002年)を読み直す。
https://www.msz.co.jp/book/detail/03970/

前に読んだときは「やけくそのユーモア」(24頁)などの言葉が印象に残ったが、改めて読むと、「苦しみ」という題により心が動かされる。希望も苦しみから逃れるところにあるのではなく、苦しみと共に歩み続けるところにこそある。

「おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげないなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。」(113頁)

「それはなにも強制収容所にはかぎらない。人間はどこにいても運命と対峙させられ、ただもう苦しいという状況から精神的になにかをなしとげるかどうか、という決断を迫られるのだ。」(114頁)

「だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。」(131頁)