言語統制とか、言葉狩りみたいなことは
好きじゃない。
でも、自分で気をつけている言葉はある。
前の「きちんと」もそうだけれど、思うと
「先程言いましたが」も要注意だ。
気持ちとしては、「何度もすいませんねえ」
と言っているのだが、ニュアンスによっては
「何度も、何度も、まったくもう・・・」と伝わりかねない
こともない(どっちだ)。
まったく言葉はむずかしい。
愚かな私
男性「息子がDJになりたいって、いってるんです」
ゲンダ「いいんじゃないですか。
ラジオはいいですよ。テレビより何倍もいい」
男性「・・・そ、そうなんですか」
ゲンダ「でも最近は、DJっていわずに、
パーソナリティとか、ナビゲータって
いうらしいですよ。カビラさんとか、
お父さんがDJだったのを意識して、
あえてナビゲータって、いうそうですよ」
男性「・・・・」
アホか。ラジオじゃないよ、クラブだよ。
とんちき
前にも書いたような気がするが
(だいたいもう記憶がない)
「きちんと」という言葉がどうも
好きになれない。論文やエッセイを
書くときにはぜったいに使わない(たぶん)。
「しっかりと」もそうだ。
ただ、「きちんと」というのが、どうして
好きになれないのかを、きちんと説明できない。
昨日もそうだった。
はがゆい。
努力が報われない社会
努力が報われない社会は
よくないという。今はそんな
社会だという。
だが努力は報われるために
するものなのだろうか。
報われなかったとしても
やる価値がある努力もある
のではないか。
報われない努力は
する意味がないというのが
常識となった社会も
ずいぶんつまらない気も
するのだが、どうなのだろう。
三つの基準
ここ最近、修士論文、投稿論文、博士論文
など、たくさんの論文を読んだ。そのなかで
論文の価値を評価する基準を、自分自身、
三つ持っていることに、ふと気づいた。
その三つとは
1.独創性
2.重要性
3.厳密性
だ。どの基準もそれぞれ厳しいものだ。
いずれについても最低限の水準は超えている
ことが求められる。その上で、三つのうちの
どれでもいい、なにかキラリとするものがある
ことをつい期待する。
全部でなくてもいい。
どれか一つでもいい。
でもどこかで1.を期待している自分が
いるのもまた事実だ。