三題

当時、私たち教師の研究室があったのは、
小さなアパートのような、
こぢんまりとした建物でした。
そのなかの一室だった公共スペースに、
みんながよく集まって、お茶やコーヒーを飲んだり、
お昼を一緒に食べたりしていました。

ある日の昼にふらっと立ち寄ると、
日本経済史を教えていらした大石慎三郎先生が、
出前のタンメンをすすっていらっしゃいました。
大石先生は、日本近世史の第一人者で、
NHKの歴史番組や太河ドラマの歴史考証などで、
当時たびたびお名前をおみかけしていました。

江戸時代研究の大家で、
それほど日ごろからお付き合いもなかった
七〇歳手前の大石先生に、私はそのとき
何故か突然たずねたのです。

「先生、授業にまったく自信がないんです。自分なりに
努力してやっているつもりなんですけど、多分、
学生には全然伝わっていないと思います。
先生は、どんなふうに講義されているんですか。」

大石先生は麺をすすっていた手をちょっと休め、
ゆっくりおっしゃいました。

「ボクは講義でも講演でも、
今日はアレと、コレと、コレを、
つまりは三つくらいしゃべろうかなと
思っていくだけです。それで始めてみて、
今日は反応が悪そうだから二つにしとこうとか、
今日はみんな聞きたがっているから、四つ目も
話そうか…。その程度です。」

毎回ほんとによく準備をし、せっせと講義用の
ノートをつくり、講義をしてきました。
何のため?学生に正しい経済学の知識をおしえたい
ためです。でも、本当はそうじゃなかったのです。
教えている内容がまちがっていると、学生から
非難されたりしないように、要は自分を守るため
だったのです。

その証拠に、私は授業中、
ほとんど自分のノートしか見ていませんでした。
学生がその内容にどんな表情をうかべているか、
私は関心がなかったのです。
前を向くことすら少なかったから、
どんなとき、学生はあくびをし、寝てしまうかなど
考えもしませんでした。

それからの講義では、今日話す三つは何にしようかと
考えるようになりました。
二年目からは、講義用のノートを持っていくことすら、
ほとんどやめてしまいました。

手ぶらで教室に来る私を、学生は最初、いぶかしげに
見ていたようです。そんなときは、
「自分がおぼえられないことを、おぼえろとはいえないでしょう」
なんて、今思うと、かなりキザなことをいったりしました。

そんな私が最近では、
人前でお話しすることを
とても楽しいと感じられるようになりました。
それもすべて、就職直後の挫折体験と、
大石先生から聞いた「三つ」が
大きなヒントになっていることは
まちがいありません。

玄田有史『希望のつくり方』(岩波新書)

 

 

建物

今日、
とある用事があって
目白の学習院大学に
うかがった。

学習院は
はじめて就職した大学で
10年お世話になった。

すると
1992年に就職したときに
研究室のあった
東1号館がすべて解体されていた。

すき間から除くと
がれきもいくつか見られた。
看板には新東1号館が
建設予定だという。

そこは
研究棟というよりは
小さいマンションというか
アパートのようなちょっと
不思議な建物だった。
研究室にベランダって
他に見たことがない。

『希望のつくり方』
にも書いた、
就職1年目に授業の仕方で
悩んでいたとき、
談話室で出前のタンメンを
食べていた隣室の大石先生から
「3つ」の教えを聞いたのも
この建物だった。

かたちある
記憶の断片は
確実に消えていく。
あらためて
感じた。

 

十六

朝、ラジオを聴いていたら
16歳からの相談を話していた。
コミュニケーションがうまく
取れないが、どうすればいいのか
という。

家族などのこともあるかも
しれないが、
おそらくは友だちなどと
うまくいかない、
友だちができない
といったことだろうか、
と思った。

昔、そういう質問を自分も
受けたことがあるなあと
思い出した。今だったら、自分なら
なんて答えるだろうかと
勝手に思ったりした。

人づきあいが苦手だと思う10代には親近感が湧く。

ひとつ言えるとすれば
「これから変わるから大丈夫。」
ということだろう。
変わるには、自分が変わるという
こともあれば、周りが変わるという
こともある。

実際、大人になって社交的だったり、
人と交わるのが上手な人のなかには、
10代の頃はあまり人と話さなかった、
人とかかわるのが苦手だった
という人が多いように感じる。

特に作家やアーティストなどの
活動の原動力には、かつて自分の
本当に伝えたいことが表現できなかったという
10代の頃にずっと感じ続けていた
「もどかしさ」
があったりする。

振り返ると、10代の頃の
コミュニケーションの中心には
言葉によるものか、そうでなければ
いっしょになにかをする、といった
のどちらかくらいしか、なかったように
思う。そのこと自体を、16歳が一人で
変えることは、多くの場合、むずかしいのは
確かだろう。

けれど、高校を卒業すると、人とコミュニケーション
をする手段や方法は、びっくりするくらい増えたりする。
言葉以外でも、いっしょにいなくても
コミュニケーションはいくらでもできることを
はじめて知ったりする。

先ほどの作家やアーティストであれば、
自分で何かの作品をつくるということが
コミュニケーションになったりする。
そこまでいかなくても、
黙々と働くこと、仕事をすること自体が
最大のコミュニケーションだったりもする。

それには努力ももちろんあるのだけれど、
場が代わると自然にコミュニケーションのあり方も
変わるものなので、大丈夫なんだよと、
伝えたい気がする。

それでも、今の
人に自分を理解してもらえない
という辛さは耐えられないという
16歳もいるのだろう。
ただ、それはじっと耐えるしかない
かもしれないし、それも案外わるくない。

耐えるといっても、
一定の諦めも持ちながら
本当の自分以外の自分を演じることも
将来きっと役に立つような気がする。
特に仕事をするときに。

それも難しいなら、
そもそも人とのコミュニケーション
ということに期待しない、
事実上離れてしまう、のも一つだろう。

ある編集者は、高校時代に
学校の図書館の本を全部読むと
決めたそうだ。本当に読んだかどうかは
知らない。よっぽど人付き合いができなかった
人だったのだろうが、今では出版界でも指折りの
コミュニケーターだ。

本でなくても、音楽でも、映画でも、
ゲームでも、ずーとかかわっていても
飽きないものが、見つけられれば、それも
どこかに何かにつながって、コミュニケーションの
きっかけになったりするから面白い。

何かを発信・表現することも
コミュニケーションだろうが、
何かを吸収・蓄積することも
実はコミュニケーションだ。案外、
10代に必要なのは後者かもしれない。

まあ、誰にも聞かれてもいないし、
どうでもいいんだけど。かくいう
自分も、高校時代の思い出す情景は
学校のベランダの塀に肘と顎を乗せて
ぼーっと外を見ていたことだったりする。

冷狐

例年だと
この時期、
大学近くで
昼にするとすれば
学生時代からある
古い蕎麦屋で
「おおひやぎつね」
とよく決まっていた。

おおひやぎつねは
冷やしきつね蕎麦の大盛で
甘く煮たきつねを細かく千切りにして
その横にたっぷりと胡瓜ともやしが
添えられ、てっぺんには紅ショウガ。
別皿の白ネギの輪切りも全部乗せ、
わさびは食べるたびに箸にとる。

他の店にも冷やしきつねは
あるものの、どことなく違っていて、
食べるのは、そこに決まっていた。

その店も一年前に閉じてしまった。

家から歩いての
通勤路にあった
コンビニも今週、
店を閉めた。
夕方だったが
あたりがすっかり暗くなった
感じがした。

山崎正和さんが
お亡くなりになった。
心よりご冥福をお祈りします。
https://www.suntory.co.jp/sfnd/

 

 

 

仮設

今年6月末に
刊行した
『地域の危機・釜石の対応』
http://www.utp.or.jp/book/b508909.html
のなかで、
地域社会学の研究者であり
長年の釜石研究の仲間でもある
吉野英岐さんは、
災害後に一時的・緊急的に
建設された
仮設の住宅街や商店街
の建物やそこでの生活・仕事を
「カリソメの記憶」
として次のように描いている。

仮設の建物は
震災後に膨大に残された写真や映像、
そして語りのなかにも、ほとんど登場しない。
祈りや鎮魂の対象でもないため、
記憶やその継承という枠組みからすっぽり抜け落ちている。
まさに射程の短い記憶であり、表層的な記憶でしかない。
今後、震災の教訓を受け継いでいくなかでも、仮設の建築物は
語るべき記憶としては取り上げられない可能性もある(322頁)。

理想の未来を思い浮かべ、その未来の姿を語る時、
それは特定の記憶に基づいて形成されたイメージが
もとになっているのではないだろうか。
もし、大規模な記憶の断絶や不連続が生じると、
個人のアイデンティティーや社会関係の不安定化が生じないだろうか。
震災という突発的な危機だけでなく、
復興過程で生じた仮設建築物で過ごした時間の記憶の断絶は、
緩慢な危機となって今後、私たちに降りかかってくるのではないだろうか(323頁)。

吉野さんの文章を
思い出したのは、
感染拡大という危機を受けて、
今、自分たちもまた
「仮設の生活」のなかに
知らずしらずのうちに
生きているのではないだろうか
と思ったからだ。

今は、あくまで突発的な状況のなかでの
かりそめの生活であって、いつかは必ず
元通りの生活が戻ってきたり
新しい落ち着いた生活が訪れることを
無意識のうちに信じ込みながら、
日々を過ごそうとしている。

だからこそ、かりそめの生活は
本来のものではないとして、
積極的に記憶したり、あえて記録に残そうと
しようともしない。震災後に確かに
存在したが、その後は消え失せる運命に
あった仮設の建築物と同じように、
感染拡大中のかりそめのような
生活の記憶や記録は、
後で振り返ったときには、あとかたもなく
消えてしまっているのかもしれない。

でも、それでいいのだろうか。

かりそめだったからこそ、
いつかはそうでなくなることを
わかっていたからこそ、
そのときだけの
かけがえのない何かが
本当はあったのではないか。

仮設住宅や仮設商店街には、
かりそめとわかっていたからこそ濃密で、
ことさら強調もしないがそれでも
何気なく思いやりのある関係もあったのだ。

だとすれば、今の生活のなかで
できれば忘れないほうがよい、
忘れてはならない、それとはなんだったのか。

オリンピックが行われなかった
みんなが電車でマスクをしていた
毎日感染のニュースが流れていた
等とは違う、もっとパーソナルな
小さいけれど大切な何かだ。

そんなことを
あるドラマを見ながら
ふと考えたりした。
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2020108676SA000/