日常

申し訳ないのだけれど(誰に?)
「ニューノーマル」
という表現が、どうにも
個人的にはピンと来ない。

「新しさ」というとき、
それは現在もしくは過去を
軸に比較したときの新規さだろう。
過去現在の意識がある限り、
そこから見た未来は
たしかにニューになる。

しかし未来がその時点で
日常(ノーマル)となり、
過去と比較されるがいつかなくなれば
そのときには新しさ(ニュー)の感覚などは
とっくになくなっていて、ふだんのことは
当たり前の一つになっているからだ。

ニューには過去からの
脱却の要素が含まれるため
どこからしからそれ自体
歓迎してみたくなるムードがある。
とにかく新しい何がが欲しくなる。

たださらなる未来からみれば
そのときニューと言っていたこと自体が
振り返るとどこか懐かしくかつ気恥ずかしくなることがある。
フォークや歌謡曲と比較した
『ニューミュージック』とか。

ノーマルとは
ニューとオールドのはざまに
つねにあり、その間で漂う状態のことを言う。
ニューは発見され、
オールドは解釈される。
それらに対して、実はもっとも
目が届きにくく、わかりにくいものこそが
ノーマルというものだろう。

過去の当たり前とは違う
別の当たり前の日常というのは
あえてニューなどといわずとも
つねに起こり続けている。
今回の感染拡大に限らず、
日常とは当たり前の更新の連続から
成り立っている。

当たり前(ノーマル)は移り変わる。
一つ思うのは
また別の当たり前が生まれると
そこにはまた時代に特有の
格差が生じるということだ。

知らず知らずいつのまにか
確立していたノーマルを味方に付けて
揚々と暮らす人々もいれば
それにひどく虐げられる人々もいる。

その格差をすら
どうしようもない当たり前のことと
してあきらめないために
学問や研究はあるのだと思う。