包括

先日、人事担当者の方々から、感染拡大後の対応について、いろいろお話しを聞いた。 そのなかで、こういう状況だからこそ、会社や職場の「一体感」をいかに生み出すかに努力されているといったことが、印象に残った。

仕事や関係の個別化は、今に限られない長期的な流れだが、それでもまさに今こそ、 リモートワークなどの個別を補う包括の取り組みが必要されているのだと思う。そうでなければリモートワークなどによる自由の恩恵は、自分のことは自分ですべて対応できる人たちだけのものになってしまうだろう。

そんなことを考えながら、エッセイを書いた。
https://www.works-i.com/project/coronashock/column/detail005.html

労働者を代表する手段や組織のあるほうが、個別の問題や課題を汲み取りやすく、結果的にリモートワークも進めやすくなるといった内容。 「離脱」だけでなく「発言」が、組織の衰退を食い止めるには重要ということの一例だと考えている。

運命

何年かぶりにV.E.フランクル『夜と霧 新版』(池田香代子訳、みすず書房、2002年)を読み直す。
https://www.msz.co.jp/book/detail/03970/

前に読んだときは「やけくそのユーモア」(24頁)などの言葉が印象に残ったが、改めて読むと、「苦しみ」という題により心が動かされる。希望も苦しみから逃れるところにあるのではなく、苦しみと共に歩み続けるところにこそある。

「おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげないなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。」(113頁)

「それはなにも強制収容所にはかぎらない。人間はどこにいても運命と対峙させられ、ただもう苦しいという状況から精神的になにかをなしとげるかどうか、という決断を迫られるのだ。」(114頁)

「だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。」(131頁)

記録

たしかに今年は
春以降、
写真というものが
ほとんどない。
誰かと一緒に
撮った写真
というのがまずない。

このままいくと
後でふりかえったとき
感染が広がっていた期間
の写真などの記録が
全然残っていない
ということになる
人も私を含めて多くなるのではないか。

2020年の記録。
それを写真で残しておくとすれば、
どんなものになるのか。
少し考えてもよい
ことかもしれないと思った。