ニートを含めて若者全体について、
本当にコミュニケーション能力が低下
しているかどうかは、わからないと私は
思っている。むしろ幼少の頃から身の回りに
陰湿ないじめの存在などがあり、そのなかで
目立たぬよう、攻撃の対象とならぬよう、
意識的、無意識的に、人間関係に対して
実に繊細な気づかいをしてきた若者は、
見方によってはきわめてコミュニケーション
能力が高いともいえる。そんな努力を
積み重ねた上に、社会や企業では
もっとコミュニケーション能力が必要という声に、
若者はもう疲れてしまっているのだ。
それに企業社会などで、若者にコミュニケーション能力が
ないと大人が嘆くのも、大人が自分に理解できない若者を
コミュニケーション能力という流行語で表現している
面もある。どんな時代であれ、大人は自分の価値基準
では理解できない若者を「通じない存在」として、
自分に理解できないという理由で、能力が低いと
みなしがちだ。だとすれば、大人と若者のうち、
コミュニケーション能力が本当に低いのは
どちらかといった問題ではなく、異なる世代が
理解し合うのには、いつの時代も限界がある
という当たり前の事実だけが残ることになる。
(第十章「親と子どものあいだには」より)
『働く過剰』(4)
ニートの増加は、これから社会にどんな影響を
およぼすことになるのだろうか。労働力人口の減少
にも拍車がかかるだろうし、社会保障制度の担い手が
足りなくなるかもしれない。しかし、経済成長や年金制度の
維持を目的にニート解消を目指すというのは、本末顛倒だ。
「社会のために働け」「働かざるもの食うべからず」と言われて
働き出すニートはどこにもいない。それは少子化に歯止めを
かけるために出産を決意する女性がいないのと同じだ。
(第五章「ニート、フリーターの何が問題なのか」より)
『働く過剰』(3)
長すぎず、かといって短すぎず、
たとえば週50時間程度の「ほどほど」に働くことが、
30代男性サラリーマンにとって一番仕事の満足感を
得やすかったリ、適度な時間のなかで能力開発を促進する。
個人にとっての成長機会と満足度、企業にとっての人事管理や
事業変革などを両立できるための、長すぎない、かといって
短いだけではない、適度な労働時間をどのように実現できるか。
そのさじ加減を、これからもっと真剣に考えていくべきではないだろうか。
(「第三章 長時間労働と本当の弊害」より)
『働く過剰』(2)
世の中では、正社員でなければ安定して働けないし、
まともな扱いを受けないと心配する声もよくきかれる。
実際に、そんな不当な処遇の職場が絶対にないとはいえないし、
やりきれないと思っているフリーターや派遣社員も多いだろう。
しかし、一方で、正社員だろうが、そうでなかろうが、
働いているのは同じこと、それなら、一人ひとりが
気持ちよく働けるような環境をつくろうじゃないかと努力したり、
工夫したりしている会社もあるのだ。
コア社員のみの育成という考え方になんら疑問を持たず、
すべての働く人にとって大きな意味を持つ退職という
別れ際の重要性に思いが及ばない会社では、
人材育成もおぼつかない。
(「第一章 即戦力という幻想」より)
『働く過剰』(1)
それにしても、どうして若者にとって働くことや生きることが、
これほど難儀で複雑なものになってしまったのだろう。
仕事にせよ、生活にせよ、その本質は、もっとシンプルなこ
とだったはずだ。
本書のタイトルである『働く過剰』は、現代社会で働こう
とする若者が晒されている、さまざまな過剰に対する違和感を、
私なりに表現したものである。働いている若者たちは、
働く前から過剰にあるべき人材条件を課され、働き出せば
今度は過剰なほどに長時間の労働を繰り返し、孤独に疲弊している。
一方、働けない若者たちは、働くことに過剰な希望を追い求め、
働く意味について過剰に悩み、そして働く自分に過剰なほど自信を失っている。
働く問題にかぎらず、「ほどほど」「ぼちぼち」ということが
否定されようとしているのが、日本の現代なのかもしれない。
社会や経済の構造変化が強調され、すみやかで抜本的な対応が
要求され続ける。あらゆる中庸は排除され、即座にかつ極端に
変化することばかりが求められてしまうのだ。
(「あとがきにかえて」より)