冷狐

例年だと
この時期、
大学近くで
昼にするとすれば
学生時代からある
古い蕎麦屋で
「おおひやぎつね」
とよく決まっていた。

おおひやぎつねは
冷やしきつね蕎麦の大盛で
甘く煮たきつねを細かく千切りにして
その横にたっぷりと胡瓜ともやしが
添えられ、てっぺんには紅ショウガ。
別皿の白ネギの輪切りも全部乗せ、
わさびは食べるたびに箸にとる。

他の店にも冷やしきつねは
あるものの、どことなく違っていて、
食べるのは、そこに決まっていた。

その店も一年前に閉じてしまった。

家から歩いての
通勤路にあった
コンビニも今週、
店を閉めた。
夕方だったが
あたりがすっかり暗くなった
感じがした。

山崎正和さんが
お亡くなりになった。
心よりご冥福をお祈りします。
https://www.suntory.co.jp/sfnd/

 

 

 

仮設

今年6月末に
刊行した
『地域の危機・釜石の対応』
http://www.utp.or.jp/book/b508909.html
のなかで、
地域社会学の研究者であり
長年の釜石研究の仲間でもある
吉野英岐さんは、
災害後に一時的・緊急的に
建設された
仮設の住宅街や商店街
の建物やそこでの生活・仕事を
「カリソメの記憶」
として次のように描いている。

仮設の建物は
震災後に膨大に残された写真や映像、
そして語りのなかにも、ほとんど登場しない。
祈りや鎮魂の対象でもないため、
記憶やその継承という枠組みからすっぽり抜け落ちている。
まさに射程の短い記憶であり、表層的な記憶でしかない。
今後、震災の教訓を受け継いでいくなかでも、仮設の建築物は
語るべき記憶としては取り上げられない可能性もある(322頁)。

理想の未来を思い浮かべ、その未来の姿を語る時、
それは特定の記憶に基づいて形成されたイメージが
もとになっているのではないだろうか。
もし、大規模な記憶の断絶や不連続が生じると、
個人のアイデンティティーや社会関係の不安定化が生じないだろうか。
震災という突発的な危機だけでなく、
復興過程で生じた仮設建築物で過ごした時間の記憶の断絶は、
緩慢な危機となって今後、私たちに降りかかってくるのではないだろうか(323頁)。

吉野さんの文章を
思い出したのは、
感染拡大という危機を受けて、
今、自分たちもまた
「仮設の生活」のなかに
知らずしらずのうちに
生きているのではないだろうか
と思ったからだ。

今は、あくまで突発的な状況のなかでの
かりそめの生活であって、いつかは必ず
元通りの生活が戻ってきたり
新しい落ち着いた生活が訪れることを
無意識のうちに信じ込みながら、
日々を過ごそうとしている。

だからこそ、かりそめの生活は
本来のものではないとして、
積極的に記憶したり、あえて記録に残そうと
しようともしない。震災後に確かに
存在したが、その後は消え失せる運命に
あった仮設の建築物と同じように、
感染拡大中のかりそめのような
生活の記憶や記録は、
後で振り返ったときには、あとかたもなく
消えてしまっているのかもしれない。

でも、それでいいのだろうか。

かりそめだったからこそ、
いつかはそうでなくなることを
わかっていたからこそ、
そのときだけの
かけがえのない何かが
本当はあったのではないか。

仮設住宅や仮設商店街には、
かりそめとわかっていたからこそ濃密で、
ことさら強調もしないがそれでも
何気なく思いやりのある関係もあったのだ。

だとすれば、今の生活のなかで
できれば忘れないほうがよい、
忘れてはならない、それとはなんだったのか。

オリンピックが行われなかった
みんなが電車でマスクをしていた
毎日感染のニュースが流れていた
等とは違う、もっとパーソナルな
小さいけれど大切な何かだ。

そんなことを
あるドラマを見ながら
ふと考えたりした。
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2020108676SA000/

 

 

 

 

長編

3月から
読み進めていた
全7巻、
各巻500頁以上の
長編モノを
本日読了。
足かけ半年
ということになる。

タッ・セイ・カン

これまで
挑んできた
長編のなかには
どうにも
なにか合わず、
読み進められなかったものもある。
要は相性がよくなかった。

今回も当初は
難儀をしたが
途中からリズムが出てきて
なんとか最後まで
たどり着けた。

さて
次はどうしようか。

仕事

希望学を
始めた
2000年代半ば頃には
希望の中身を問うと
安定した仕事
自分らしい仕事
両立できる仕事
など
仕事にまつわる希望の
語られることが
日本では多かった
ように思う。

それが
リーマンショックと呼ばれる
怒涛の世界金融不況と
多くの命を奪った
東日本大震災を
立て続けに
経験し、
頑張って仕事をすることを
通じて希望を叶える
といったことに一定の
虚しさや諦めが
広がったように思えた。

多かった仕事にまつわる希望から
家族や健康にまつわる希望が
より強く意識されるようになった
のもその頃からだろうと思っている。

原因や解決策の未だ見えない
感染症という
自分が努力するだけでは
どうにもならないかもしれない
新しい
どうしようもなさ
を前にして
仕事という希望は
どこに向かっていくのだろうか。

ますます仕事を希望に思う
気持ちは弱まっていくのか。
それともこのような状況のなかで
懸命に仕事をする
仕事ができる
ということへの見直しの機運に
つながるのだろうか。

震災後に
今こそ希望学を
というお声をいただいたことがあるが
今もまた
改めて考えるべきなのかも
しれない。