受容

〈待つ〉は、
人類の意識が成熟して
付加的に獲得した能力なのではない。
〈待つ〉ははじめから、
意識を可能にするもっとも基礎的な位相にあった。
〈待つ〉ことから未来は生まれ、
意識は始動したとすら言えるかもしれない。

たとえば、農耕文化の初期を想像してみる。
ひとびとは季節の反復をくりかえし経験しているうちに、
雨乞いをし、日照りを怖れ、収穫を待つようになった。

〈待つ〉はたしかに期待や予想と連動している。
ただ、期待や予想ほどに、現在につなぎとめられてはいない。
むしろ時のなかをたゆたい、なりゆきに身をまかせ、
ときに偶然に救われ、ときに偶然に裏切られ、
そのすべてを「さだめ」として甘受するという、
受動というよりは受容をこととしてきた。

〈待つ〉はそういう待機、
そういう受容としてあった。

――鷲田清一『〈待つ〉ということ』より